藤のルーツ 第17回

高等教育への道

前回記しましたように、終戦直後から日本における教育行政の方針は、GHQの指導のもと、軍国主義教育から個人の教養を高めて科学的思考力を育て、平和を愛する国民を育てる教育に変化しました。

また日本における戦後の教育で力を入れられたのが、女子教育の振興であり、女子の高等教育が求められました。その文部省方針に沿った形で、さらに働く男性の不足の中で国の再建を担う女性を育てるため、藤は1947年に北海道で最初の女子専門学校を設立しました。3か年課程の藤女子専門学校で、国語科と生活科(定員各50名)を設け、国語科教員と家庭科教員を養成しました。この第一回生たちは、卒業の折に教員免許のために国家試験を受けなければならず、全員が合格すれば翌年から教職課程履修者は国家試験が免除になるということで、後輩のためにも必死に頑張った結果、めでたく全員合格の快挙を成し遂げました。この時に得た免許によって、生涯、教員を続けた先輩もいらっしゃいます。

1949年に新学校制度による四年制の新制大学が発足し、藤はその前年に北海道議会の後押しを受けて、310直播を設立する構想を文部省に事前申請をしましたが、非とされました。それを告げる文書(1949年2月21日付)には、「目下文部省では2年制または3年制の大学を設置できるように検討中であるから、遠からずこれによって切り替えられる道も開かれると予想されるので念のため申し添える」と記されていました。1949年8月に短期大学設置基準が定まり、これに向けての申請が許可され、藤女子専門学校は藤女子短期大学へと発展しました。専門学校は2回の卒業生合計175人を出し、短大に移行。

北海道内におけるこの新制大学設置運動は、北海道大学、小樽商科大学、室蘭工業大学、帯広畜産大学、北海道学芸大学の国立5大学にとどまりました。私立では酪農大学、310直播、天使女子大学が申請しましたが、いずれも不認可となりました。GHQの指導もあり、原則的には旧制高校の4年制大学への昇格と、戦後新設の専門学校の短期大学化を目指した文部省の基本方針によると思われます。北海道の場合、北海短期大学、藤女子短期大学、天使厚生短期大学、北星女子短期大学、札幌短期大学、酪農学園短期大学が1949年に認可され、1950年の開校です。藤は「英文科」「国文科」「生活科」の3学科。各定員50名で発足し、翌年家政科のみ100名に定員増をしました。

後列左から: 矢野隼輔、 竹森健夫、安延三樹太、 宇野親美、広瀬京一郎、 市川三枝、山北タツヱ 前列左から:牧野しおり、 山鳥ウサ、 永井一夫、 牧野キク、クサヴェラ? レーメ、ベルヒマンス? メーレル、米谷智恵
後列左から: 矢野隼輔、 竹森健夫、安延三樹太、 宇野親美、広瀬京一郎、 市川三枝、山北タツヱ 前列左から:牧野しおり、 山鳥ウサ、 永井一夫、 牧野キク、クサヴェラ? レーメ、ベルヒマンス? メーレル、米谷智恵