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「_v」の検索結果(2379件)
  • 藤のルーツ 第12回 初来日 1914年にドイツを出発して日本へ向かった4人のシスターたちが、第一次世界大戦のために航行を続けることができなくなり、スエズから故国ドイツへ戻ってからも戦争は思ったより長く続き、1918年11月にやっと終結しました。1918年春からスペイン風邪のパンデミックがヨーロッパだけではなく世界中を襲い、夥しい死者を出して1920年春に収束しました。 その収束を待っていたかのように、1920年5月31日に3人のシスターたちが北ドイツ?テュイネの本部修道院を出発し、日本へ向かいました。Sr.M.カンディダ、Sr.M.ジャン?ベルヒマンス、Sr.M.クサヴェラの3人です。フルダに立ち寄って、日本へ宣教師として派遣されるフランシスコ会のルカ?ベルニング神父様と共に、日本へ出発。ルカ神父様はテュイネの属するオスナブリュック教区の、当時のヴィルヘルム?ベルニング司教様の甥にあたる方です。 イタリアのトリエステでイタリアの汽船に乗り、長く暑い...
  • 藤のルーツ 第11回 第1回目の渡日の中断 1907年にドイツから来日し、札幌を中心に宣教活動を始めていたフランシスコ会の責任者であったヴェンセスラウス?キノルド神父は、北海道の宣教のために教育活動が必要であると考えました。そこで1914年に女子教育を行うために故国ドイツの女子修道会からの派遣を要請し、私たちの修道会「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」がその要請に応じてシスターを派遣することを決定。その年の7月9日に北ドイツのテュイネから、シスター?クサヴェラ?レーメを含む4人のシスターたちが出発しました。再び故国の土を踏むことも、愛する家族やシスターたちとの再会もない覚悟の出発です。 ドイツの真中あたりのフルダに寄り、そこから宣教師として日本へ派遣されるフランシスコ会の4人の司祭たちと合流。そしてイタリアのアシジに行き、そこからローマに行きます。ローマでは教皇ピオ10世の謁見を賜り、使命のために祝福をいただきました。その後、7月27日にナポリからドイツ船リュツォ...
  • 藤のルーツ 第10回 フランシスコ会再来日と北海道 前回は、潜伏していたキリシタンが1865年に長崎大浦天主堂のプチジャン神父に名乗り出たこと、そこから全世界に日本での奇跡的な信徒発見のニュースが伝えられたこと、欧米からの圧力によって1873年にキリシタン禁制の高札は撤去され、キリスト教は解禁されたことを書きました。 外国人居留地から自由に外に出ることが許されていなかったパリ外国宣教会の宣教師たちにも、内地旅行が緩和され、教会は急速に進展し始めました。宣教師たちは村から村へと巡り歩き、道々目にする悲惨な状況にある病人、子供、老人などに心を留めて小さな居場所を作りました。その世話のためにフランスから修道会を招き、医療、教育、福祉などの事業に発展させていきました。 1891年に日本の教会は、長崎、大阪、東京、函館の4つの司教区に分けられ、函館元町教会の主任司祭だったベルリオーズ師が、函館教区の司教に叙階されました。南樺太と千島を含む北海道全域と新潟と東北...
  • 藤のルーツ 第9回 日本での再宣教開始 前回は、16世紀半ばのキリスト教と東洋との出会いでした。日本に伝えられたキリスト教は多くの有力武士の信徒も獲得し、またさらに大勢の貧しい農民たちも獲得するにいたりました。 時の権力者たちにとって、キリスト教がもたらした大きな脅威は、信徒たちが身分の違いを超え、さらに支配者の垣根を越えて結びついていたことです。そこに権力者が危険を感じたのは想像に難くありません。 キリスト教の渡日から50年ほど経て始まったキリスト教迫害は、世紀が改まって17世紀になると、宣教師たちに対する迫害の厳しさはますます度合を増します。宣教師の国外追放令が出されても、日本に残留して信徒たちの霊的な世話をする宣教師たち、密入国を試みて成功してもすぐに見つかり処刑される宣教師たち…。大勢の宣教師たちが命をキリストのために捧げました。そして日本人信徒たちも求められるまま仏教徒として寺の檀家に登録し、二重の生活をして生き延びました。宣教師不在の日...
  • 藤のルーツ 第8回 東洋への宣教活動 前回は、初代教会の遭遇した迫害についてでした。その後、キリスト教がローマ帝国において公認された4世紀から、教会の発展期が始まりました。長い中世はそのような時代であったといえるでしょう。 教会の勢力が強くなるにしたがって、教会は世俗的な力も強くなり、それによって聖と俗との均衡が危うくなることがありました。そのような時代にも多くの聖人たちが現れ、教会の刷新に力となりました。アシジの聖フランシスコもそのような聖人の一人です。 また、教会の刷新運動としてプロテスタンティズムが生まれ、カトリック教会はそれに対抗して自らを刷新する運動を強くしました。アヴィラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネによるカルメル会刷新運動や、聖イグナチオ?ロヨラによるイエズス会創立は、その代表と言えます。病者の世話や貧者の救済?教育などのためにも、多くの修道会が創立されました。 また、東洋やアメリカ大陸への航路が発見されるなど、新...
  • 藤のルーツ 第7回 ローマ時代の殉教者たち 今回は、1世紀から4世紀初頭の間のローマ時代における殉教者たちに焦点を当てたいと思います。ローマ帝国は諸国?諸民族を支配する広大な帝国となり、多民族帝国の方針として、支配した民族や国の宗教に寛容な立場をとっていました。それなのに何故、キリスト教徒たちが迫害され、殉教していったのでしょうか? まず挙げられるのは、多神教社会であったローマ帝国において、キリスト教は厳密な一神教であり、偶像に献香したり、偶像に供えられた食物を食べるのを拒否したこと。また、皇帝崇拝が求められるようになった時、それを断固として拒否したことがあげられます。皇帝崇拝は、帝国に対する忠誠の絶対的な要件として求められました。 さらに、キリスト教徒は身分の違いに関わらず、兄弟姉妹として一致していたこと。特に、当時の厳しい奴隷制社会の中で、奴隷が自由民と同じ集いに参加し、同じ仲間として加わることができたことは、理解されませんでした。 ...
  • 藤のルーツ 第6回 キリスト教の源流〈ペトロとパウロの殉教〉 イエスの受難?復活?昇天という一連の出来事の目撃者であり、証人となる使命を与えられた弟子たちは、聖霊降臨という不思議な出来事(新約聖書「使徒言行録2章」参照)によって、無知な臆病者から大胆で雄弁な証人になり、イエス?キリストを伝え始めます。 ペトロは、イエスが捕らえられた時に逃げ、イエスの弟子であることを3度否定します。しかし、彼は聖霊降臨の後に大変革を遂げ、イエスの筆頭弟子として、主に各地のユダヤ人たちにイエスを伝え歩き、最後はローマでネロ皇帝による迫害で紀元65年頃殉教します。バチカンの丘のふもとの競技場で十字架刑に処され、その遺骨はキリスト教徒たちによって、競技場のすぐ隣の墓所で大切に崇敬されました。4世紀にコンスタンティヌス皇帝はキリスト教を公認した後、このペトロの墓の上に聖堂(バジリカ)を建てます。16世紀にこのバジリカを大きなものに建て替えたのが、現在の聖ペトロ大聖堂です。第二次世界大戦中に教皇...
  • 藤のルーツ 第5回 祈りと説教と奉仕 今回は、教皇に承認された兄弟たちの新しい生活の中で、フランシスコの心に生まれた内的な葛藤について触れたいと思います。フランシスコは求めていた新しい生活、神との深い交わりの中に生きる生活、山奥で昔からベネディクト会の修道士たちが隠遁所として使っていた洞穴などに籠った祈りの生活――このような生活に心から魅かれながら、度々、隠遁所に出かけて祈りのうちに過ごしていました。そして、生涯このような生活を送ることへの強い憧れも感じていました。 一方、彼の心には世俗的な名誉や富や快楽に溺れた生活をしている当時の人々に、神の愛を伝える望み、その使命感も生まれてきていました。福音に従った新しい生活へ人々を招き、そして、ハンセン病患者など世の中で疎んじられている人々への愛の奉仕に生きる望みも断ちがたいものでした。 彼はこのような心の葛藤の中で、神が彼に望んでおられる道を知りたいと考えていました。そこで、ある時、ポッジョ?ブストーネと...
  • 藤のルーツ 第2回 フランシスコ会家族 今回は、藤学園の設立母体である「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」が属している、「フランシスコ会」という大きな家族についてご紹介します。 修道生活のようなものは、世界の殆どどの宗教にもあると思います。キリスト教の修道生活は、砂漠に隠遁生活を始めた3世紀の聖人、エジプトの聖アントニオという人から始まると言われています。4世紀になると、隠遁生活ではなく、共同体生活をする修道院生活が始まります。 6世紀になると、聖ベネディクトが共同生活を基盤とする修道生活を始め、彼の書いた修道生活の戒律が、その後の修道生活の基本として用いられました。ベネディクト会は「祈りかつ働け」をモットーに、修道院に定住する生活を送りました。 13世紀には、聖フランシスコと聖ドミニコによって、定住生活ではなく、托鉢や説教をして歩きまわる新しい修道会が生まれたのです。ベネディクト会の修道院が、都市から離れた静かな田園や山...
  • 藤のルーツ 第4回 教皇への忠誠 前回は、聖フランシスコの精神をご紹介しました。「行って、私の家を建て直しなさい」というキリストの呼びかけを聴いて、幾つもの壊れかけた教会を修復し、すべてを捨てて貧しくなり、謙遜に愛深くハンセン病患者たちのお世話をしたりしているうちに、仲間たちが加わってきたのでした。 今回は、その増えてきた仲間たちとの新しい生活を、教会から正式に認めていただくことを求めて、フランシスコは簡単な規則を作って教皇イノチェント3世のもとに承認を願い出たことです。その原始会則と呼ばれるものは、イエスの命じることをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣しようというフランシスコの精神が書かれた非常に簡単なものです。フランシスコは、自分たちの新しい生活を教皇の承認のもとに行いたいと考えました。 当時、一切を所有せず全く清貧に生き、托鉢や宣教活動を行っている団体がいくつも現れていました。ワルド派が有名ですが、教会からは異端とされていました。彼らは...